2月17日、師匠お奨めのカントリーウォークとして十三峠歩きと最近行ってる城址巡りをセット企画として、快晴の下行われました。
十三峠とは、大井宿(恵那市)から次の大湫(おおくて)宿(瑞浪市)までは、3里半(14km)、その間に、何と!十三峠と言われるアップ・ダウンの山の中である。13とは名ばかりで実際は20以上もある中山道一の難所だったようです。旧中山道が当時のまま残っていて、史跡が点在する道となります。
このうち大湫から歩き始め、途中の権現山に登り刈安城址を探索する計画です。
宋昌寺脇より8時過ぎ大湫入り口を登り始めます。その昔は人馬、牛車が通ったであろう道で、道幅も軽自動車なら問題なく通れる程広く、驚きます。しかし、中山道といえば武家の時代、江戸と上方を結ぶ主要道で今で言う一級国道ですので、当然といえば当然でしょう。参勤交代の大行列が歩き、この宿あたりは皇女和宮が将軍家に嫁ぐ際に利用された道でもあり、この規模は納得できます。
入るとすぐちょっとした傾斜となります、風が冷たく冷え込みます。まずは童子ヶ根に到着です。
『向うに遠く見ゆる山はかの横長岳(恵那山)なり』と書かれています。しかし、ここからその姿は望めませんでした。ここからまた下りていき、車道を横切り登りあがります。少しで尻冷やしの地蔵に着きます。
通り過ぎ檜の樹林帯の間を進んでいくと、ぽっかり開けたところに出ました。三十三観音が納められている石窟があります。
石積みの立派な石窟 |
茶屋の跡地、団子ないかな…? |
観音様は全て馬頭観音。大湫宿はもとより、各地の飛脚屋が出資して作られているようです。脇には阿波屋の茶屋跡の碑があります。大井宿から厳しい峠道を通ってきた旅人は、ここで一休みをして、空腹を満たしていったのだと思われます。ここを過ぎると曽根松坂、ぴあいと坂と続きます。
順礼水に到着です。僅かな清水なのですが、8月1日に枯れることはないと謂われているようです。つまり、真夏でも枯れないということだと想像しますが、このあたりの山の保水力に感心せざるを得ません。そして、順礼水の坂を通り過ぎ、樫ノ木坂に到着です。
綺麗な石畳 |
のどかな里を歩きます |
炭焼立場跡の看板の傍に刈安神社参道口があります。
ここから登りあがること30分で権現山山頂のようです。さて、コケコッコーと雄鶏にエールを送られながら登りあがります。道は竪堀のような道となっていて、直登のようです。
烏帽子岩の裏には明確な堀切があります。草を踏み分け主郭へ上がります。先の眼下には何段もの曲輪が確認出来ました。
神社へ戻りここで昼食をとり下山します。まだまだ中山道は続くのですが、我々は戻ります。
車に戻り大湫宿を覗きます。大湫公民館が資料館なのですが日曜は休みということで、その前にある旧森川訓行家住宅が観光案内所となっており、ここで説明を受けます。
平成18年には国登録有形文化財に登録されました。平成26年に所有者から寄贈を受けたことから、大湫宿の観光の拠点となる施設へ整備することになりました。ということで観光案内所として現在に至っている模様です。確かに見上げると梁が立派で見事に手斧かけ(ちょうながけ)されていました。この梁を見ればその住宅の格がわかりますね。
ここが観光案内所 |
外に出ると駐車場の上が小学校跡地のようで、上がってみます。この跡地もともとは本陣跡だそうで、和宮がこの本陣で泊まったところのようです。句碑もありました。
遠ざかる 都と知れば旅衣 一夜の宿もたちうかりけり
思いきや 雲井の袂ぬぎかえて うき旅衣袖しぼるとは
と彫られています。歌心がないので完全に理解できませんが、何となくわかるような気がします。
三姫の陶像 |
ここから琵琶峠に向かいます。
ここは江戸当時のまま現存する最大級の石畳の道となっています。
石畳というより階段と言ってもいいくらいの道ですが、ここにもいく種かの石仏が点在しています。昭和45年に今の形で掘り出され県の史跡とされています。
階段だよね? |
この峠名の由来については、琵琶を伏せた形に似ているからという説や、信州の琵琶法師が京に修業に向かったが、修業の甲斐なく失意を胸に信州目指して帰路についた。法師は琵琶峠の頂上で松の根元に腰を下ろすといつのまにか眠ってしまい、夢の中で素晴らしい琵琶の音を耳にした。それは峠に吹いた風が木の梢を鳴らす音であった。これにより法師は琵琶の奥義を悟ることができ、宿場の人々にこの話を語って琵琶を奏でた。そのため、いつしかこの峠を琵琶峠と呼ぶようになった、との説話も伝えられているようです。
峠には馬頭観音があるね |
文学碑 |
展望のない展望地へ向います |
琵琶峠を通る中山道(約1km)には、石仏、矢穴(石を割る際の道具跡)が残る岩、また岐阜県の史跡に指定されている八瀬沢一里塚がみられるなど、岐阜県下の中山道の中でも往時の面影をよく残しているといわれます。また、昭和45年には石畳が良好な状態で発見されるなどし、約700mの範囲が岐阜県の史跡に指定されています。
ここにも一里塚が、権現坂一里塚より1里分数字が変わってました |
まんまるに盛られてるよ |
反対側までピストンをして満足できたので、今日はここまでとしてかせきに戻り散会としました。
県道をまたいで石畳は続きます |
権現山山頂にて! |
参加者:美濃さん、タマさん、ゆっきーさん、定