城址めぐりシリーズとして関ヶ原に点在する古戦場を巡ってきました。
まずは松尾山城ということで、松尾山に上ります。
駐車場から40分程で山頂の城郭跡につきます。
山頂は北方面の眺望が抜群で、山に囲まれた盆地状の平地が一望出来、戦の様子が手に取るようにわかったと思われます。ここに陣を構えたのが裏切り者の汚名を着せられている小早川秀秋(備前岡山城主)、しかし、西軍として布陣したものの、東軍に寝返る事が事前に密約されていたようです。それが証拠に、徳川の配下の武将が陣に配備されていたそうな…。彼は秀吉の正室ねねの甥にあたり、秀吉の養子となり紆余曲折を経て小早川家の養子となっています。
ここでモーニングコーヒーとし、そのあと師匠にもらった縄張り図を元に曲輪巡りをします。曲輪と思しきものは見られました。土塁や天然の堅堀は見られますが、作為的なものは自然に還ったのかわかりませんでした。
下山後そのまま歩き脇坂安治(洲本城主)の陣跡の見学です。聞きなれない名ですが、賎ヶ岳七本槍の一人として名を挙げた武将だそうです。
この人物も小早川の寝返りを見て同調して寝返った人物となります。松尾山の麓の小高い丘のようなところにありました。立ち入り禁止という看板から強行突破しましたが、本来は逆からが王道のようです。
松尾山の麓に布陣したのは、大谷吉継が小早川の裏切りを疑っていたためにその押さえとして置かれたということらしいのですが、小早川の裏切りを見て大谷隊に突入しています。
その後家康最終陣地跡です。意外に多くの人が見学をされていました。家康は最初桃配山に陣を構えてたのですが、状況がよくないのでここまで押し出してきたようです。場所としては笹尾山(三成の陣)から1キロほどの所で、合戦が終了するとここで首実検をしたりしているようです。隣には資料館のような施設がありました。
そしてのろし場。合戦の合図などをするための場で、今なら電話で済みますが、当時はこれで合図を送っていたようです。黒田長政の陣の脇なので、東軍のものだったと思われます。とは言え当日は朝霧でよく見えなかったと言われていますので、使われたかどうかはわからないですね。西側に関ヶ原が一望できます。
そして笹尾山へ向かいます。松尾山の真北に位置していて、ここの幟も松尾山から確認出来ていました。駐車場には甲冑姿のボランティアの人がおり、写真を撮らせてもらったりした後、正面の階段を上りあがっていきます。5分で頂上へ着き、そこの展望台からは、関ヶ原の様子が一望出来ます。後ろには伊吹山がそびえており、前面からしか攻められないいい場所と言えます。
ここで昼食をとります。
ちょっとゆっくりしてたのですが、風が吹き始め寒くなってきたので、早々に下山して最終決戦地の跡地へ向かいます。
歩いて5分ほどの所で、田の真ん中にあります。ここにもボランティアの甲冑姿の人がおられ、少し話をします。冬はまだ寒さをしのげるらしいですが、夏は気温もさることながら、全身黒づくめですので、たまらないようです。
後ろの幟は石田の旗印、家紋ではないようです。
大一大万大吉が組み合わされています、「天下のもとで一人が万民のために、万民が一人のために・・・という世の中になればすべての人が吉( 幸福)となり、太平の世が訪れる」という意味だそうですが、彼が生み出した言葉ではなく、古くは木曽義仲を射落した石田為久という武将が使用していたようです。
この日は我々にはそこそこ人出があるように感じられましたが、映画の影響で一日で数万人来場者があったこともあったようです。しかし、跡碑を見て回るだけで入場料が必要なわけでもなく、経済的な恩恵はあまりないと思われます。
この後は島津義弘陣を見学に歩きます。どこへ行っても石碑があるだけですが、位置関係を見るだけで楽しいですね。
ここにて予定は完了となったのですが、順序が逆になるものの最終決戦地を見たので開戦の地を見ておこうと少しだけ歩きます。島津のところより10分ほどのところにありました。
ただここは伐採工事中とのことで、遠くから眺めるだけです。この裏にキリシタン大名小西行長の陣があるようなのですが、入れず田の畦を歩いて一人確認してきました。開戦場所より50mも入ったところに碑がありましたが、立ち入り禁止地にあるので幟とかはありませんでした。
これにて終了として、駐車場まで戻ります。
松尾山にも、笹尾山にも合戦の俯瞰図がありますが、それを見ると西軍は鶴翼の陣をしいています。見てわかるように、西軍は東山道(京都、滋賀方面)、北国街道(北陸)へ通じる道を押さえています。つまり援軍がこないように、逃げ出さないようにしているということです。伊勢街道だけは直接押さえられてないですが、西軍の毛利、長曽我部が近くに居ます。大垣城から東軍は着ていますので、そちらしか逃げ場がありません。それに当日の朝は霧でまったく見えなかったようなので、事前の軍議で三成はこの配置を決め通達していたと考えられます。合戦数日前には陣に入っていたのでしょう。一方の徳川はそんな中入ってきていますので、空いたところに固まった状態で配置についたといえます。
ですから、後世にこの図を見た戦争のスペシャリストは、一見して西軍が勝ったと言ったそうです。がしかし、鶴翼の片方の小早川、吉川が家康に通じていたために、片翼で挑んだということで西軍は負けました。小早川は直接大谷軍をつつきそれに同調したのが脇坂安治ら4家、先陣をきる手はずの吉川は毛利が南宮山から下りれないようにしています(全く動かなかった)。「宰相殿の空弁当」という逸話がそれを物語っています。
時間も早いので帰り道にある竹中半衛の屋敷跡の見学です。門の上に上りあがり下界を望みます。
この裏の菩提山は前回中止になっているので、来月行くことにして、ゆっきーさんとはここで別れ我々は県庁へ向かいます。
お茶しながら帰り県庁にて本日の会は終了です。
美濃さん、タマさん、ゆっきーさんお疲れ様でした。
今後もまだまだこの城址巡りは続きます、皆さんも参加してくださいな。
まずは松尾山城ということで、松尾山に上ります。
駐車場から40分程で山頂の城郭跡につきます。
途中で伊吹山が見えます。 |
山頂は北方面の眺望が抜群で、山に囲まれた盆地状の平地が一望出来、戦の様子が手に取るようにわかったと思われます。ここに陣を構えたのが裏切り者の汚名を着せられている小早川秀秋(備前岡山城主)、しかし、西軍として布陣したものの、東軍に寝返る事が事前に密約されていたようです。それが証拠に、徳川の配下の武将が陣に配備されていたそうな…。彼は秀吉の正室ねねの甥にあたり、秀吉の養子となり紆余曲折を経て小早川家の養子となっています。
ここでモーニングコーヒーとし、そのあと師匠にもらった縄張り図を元に曲輪巡りをします。曲輪と思しきものは見られました。土塁や天然の堅堀は見られますが、作為的なものは自然に還ったのかわかりませんでした。
曲輪を探します |
下山後そのまま歩き脇坂安治(洲本城主)の陣跡の見学です。聞きなれない名ですが、賎ヶ岳七本槍の一人として名を挙げた武将だそうです。
この人物も小早川の寝返りを見て同調して寝返った人物となります。松尾山の麓の小高い丘のようなところにありました。立ち入り禁止という看板から強行突破しましたが、本来は逆からが王道のようです。
ひっそりとたたずむ石碑 |
その後家康最終陣地跡です。意外に多くの人が見学をされていました。家康は最初桃配山に陣を構えてたのですが、状況がよくないのでここまで押し出してきたようです。場所としては笹尾山(三成の陣)から1キロほどの所で、合戦が終了するとここで首実検をしたりしているようです。隣には資料館のような施設がありました。
そしてのろし場。合戦の合図などをするための場で、今なら電話で済みますが、当時はこれで合図を送っていたようです。黒田長政の陣の脇なので、東軍のものだったと思われます。とは言え当日は朝霧でよく見えなかったと言われていますので、使われたかどうかはわからないですね。西側に関ヶ原が一望できます。
気持ちのいい竹林 |
そして笹尾山へ向かいます。松尾山の真北に位置していて、ここの幟も松尾山から確認出来ていました。駐車場には甲冑姿のボランティアの人がおり、写真を撮らせてもらったりした後、正面の階段を上りあがっていきます。5分で頂上へ着き、そこの展望台からは、関ヶ原の様子が一望出来ます。後ろには伊吹山がそびえており、前面からしか攻められないいい場所と言えます。
本格的な柵があります |
女性武将を口説くおっちゃん ひげ面がいかにも |
後ろの幟は石田の旗印、家紋ではないようです。
大一大万大吉が組み合わされています、「天下のもとで一人が万民のために、万民が一人のために・・・という世の中になればすべての人が吉(
ボランティアのお兄ちゃんと |
この後は島津義弘陣を見学に歩きます。どこへ行っても石碑があるだけですが、位置関係を見るだけで楽しいですね。
ここにて予定は完了となったのですが、順序が逆になるものの最終決戦地を見たので開戦の地を見ておこうと少しだけ歩きます。島津のところより10分ほどのところにありました。
これにて終了として、駐車場まで戻ります。
松尾山にも、笹尾山にも合戦の俯瞰図がありますが、それを見ると西軍は鶴翼の陣をしいています。見てわかるように、西軍は東山道(京都、滋賀方面)、北国街道(北陸)へ通じる道を押さえています。つまり援軍がこないように、逃げ出さないようにしているということです。伊勢街道だけは直接押さえられてないですが、西軍の毛利、長曽我部が近くに居ます。大垣城から東軍は着ていますので、そちらしか逃げ場がありません。それに当日の朝は霧でまったく見えなかったようなので、事前の軍議で三成はこの配置を決め通達していたと考えられます。合戦数日前には陣に入っていたのでしょう。一方の徳川はそんな中入ってきていますので、空いたところに固まった状態で配置についたといえます。
青が西軍、赤東軍、紫が寝返り組つまりは青組 |
時間も早いので帰り道にある竹中半衛の屋敷跡の見学です。門の上に上りあがり下界を望みます。
下界を見下ろします、ここは学校の門となっています |
お茶しながら帰り県庁にて本日の会は終了です。
美濃さん、タマさん、ゆっきーさんお疲れ様でした。
今後もまだまだこの城址巡りは続きます、皆さんも参加してくださいな。