2017年12月31日日曜日

高鳥谷山

二つのアルプス展望地 高鳥谷山(たかずやさん)へ。

今回は、新メンバーの宮田さんを迎えての山行です。

かせきで合流後駒ヶ根ICを目指します。
中アの展望を眺められ、曇りであるものの雲は高いようで展望があるかも、と期待しながら登山口の高鳥谷神社へ向かいます。準備後長野県天然記念物高鳥谷神社社叢の中を、樹齢300年以上と言われる赤松の参道を拝殿に向かいます。




駒ヶ根市有形文化財の本殿へ向かいます。ここで手を合わせ無事の登山をお祈りします。不思議なことにお賽銭箱がありませんでした。
本殿の裏手にある登山道へ入ります。道はU字に掘れた状態で歩きにくく、おまけに急登です。それでも上りこなすと突然林道へ出ます。正面に登山口があり、その脇にはマツタケ山につき入山禁止というおふれが立てられています。この時期なので、それがあるわけもなく、怒られることはないだろうと入って行きます。相変わらず急登の直登です。


花でもあれば癒されるんですが雪の時期でそれも期待できないし、確かに右手には赤松林があります。ここまでの赤松林は見たことないですね。そうすると、自然石の上に石碑(石塔)が建てられた所に到着です。覚順霊神と読めますが、何のことかわからないです。ま、駒ヶ根市のHPには、「高烏谷天狗(猿田彦命)を祀り」とありましたので、山岳信仰の対象の山なのでしょう。


そこを過ぎると左手樹間の隙間から駒ヶ根の街と中央アルプスが見られるようになってきます。陽こそ上ってないですが、まだまだ雲は高く山頂での風景に期待が持てます。しかし、相変わらず道は直登の急登きついです。でもおかげで高度計の数字は着々と増えていっており、見上げると稜線と空の境がはっきりしてくるのでそんなに遠くないと思われます。


巻き道との分岐も直登を選択し上りあがります。ちょっと伐採されて展望が効きそうなところで振り返ると、絶景です。そこからわずかで山頂へ到達しました。山頂は広場のようになっていて、奥に社が確認出来ます。奥へ進むと、今度は南アルプスの展望が望めます。正面に仙丈ケ岳そして甲斐駒。そのまま少し南へ下り展望東屋付近からは、塩見、北岳、間ノ岳が見られます。ここまで来ると風が吹いてきて寒いので、山頂広場にある非難小屋にもぐりこみまだ9時半なんでブランチとします。

中ア
北アも見える!
雪が少ないね、南アの女王さま

ここは西峰、時間もあるのでザックをデポして東峰へ向かいます。
林道を少し歩き尾根に上りあがります。そして到着するも、何もないピークでした。
そのまま尾根を戻ります、すると三角点が尾根上にありました。点名火山、1331.07m、三等になります。


山頂へ戻り、もう一度展望を楽しんで、下りることにします。この日は一日曇りの予報でしたので、これ以上は無理と思いましたし。
東屋の脇の巻き道を下ります。分岐へはすぐ到着してそこからは急登の直登だったルートをひたすら下りていきます。急登を下がるのも、落ち葉が敷き詰められ滑りますし、足の筋肉への刺激にはなります。
20分ほどで中間点の石塔へ。そこからも順調に下り林道へ到着します。一息入れて下り始めるとたくさんの子が上がってきます。子供会なのかボーイスカウトなのか…? クリスマス登山で山頂で楽しむのでしょう。
我々はまた下りていきます。神社に到着し少し休憩をして再び参道を駐車場へ。参道からはしっかりした青空が望め、天気予報のうそつきと思いながら温泉へ向かいます。途中の展望のいいところに車を止め、撮影会をしながらこぶしの湯に。ここでは南アルプスが望めます。
入浴後昼食をとり戻ります。関市役所4時前に到着して、今年の山行はおしまいになりました。

昨今参加者が減ってきて一時期の盛況ぶりからは信じられない状況になってきていますが、今年も事故もなく山に向かうことが出来ました。これはありがたいことです。
来年もまだまだ山が呼んでくれています。是非一緒に山に取り組みましょう!

2017年12月27日水曜日

加治田城址


城址巡り 第二弾

加治田城址

城址めぐりシリーズ第2弾として加治田城を探訪してきました。
探訪日:2017/12/17
 加治田城跡は富加町加治田の山頂に城郭遺構が分布している。山下には加治田の町が広がり、山裾を流れる川浦川が堀のように町の南辺を区画している。『信長公記』には堂洞落城後に、織田信長が佐藤紀伊守と佐藤右近右衛門の「両所」(屋敷か)へ立ち寄ったとされている。今回は梨割山に登り縦走して城山に登りました。
 [二天門」岐阜県の重要文化財
 
 梨割山へは、清水寺をみて登山口に入る。京都の清水寺と同じ創建者の貴重な寺であるとのこと。山門手前の案内板に沿って入山する。しばらくは、清水谷に沿って登ると堰堤に出る。 
  [清水谷の堰堤] 
[チャートと呼ばれる岩石]
[梨割山分岐]
 スタートから45分ぐらいで梨割山とP232mの鞍部に出る。梨割山に登る前に右に折れてP232mのピークに立ち寄り鞍部に戻る。そして案内板に沿って山腹を巻いて300mほど進むと梨割山に直登する分岐になりここを登れば梨割山だ。
[梨割山山頂278m]
[山頂の北方面]
[猿啄城と名古屋駅ビル]
 梨割山から西に尾根を縦走する。ピークを二つ超えて一旦鞍部に下りP234mピークへ不明瞭なルートをピーク目指してピストンする。鞍部から加治田城跡に向かう。涸れ沢を下り500mぐらいすると右の尾根に上がる分岐があり登りあがると岩頭展望地がある。この辺りは迷いやすいので要注意。ここからいったん下り登り返すと加治田山城跡に着く。
[ 岩塔展望テラス]
[加治田城に向かう]
 
[山城の曲輪]
 
[加治田城跡]
 加治田城は、織田信長の中濃攻略の足掛かりとなった重要な地。城山の山下には加治田の集落が広がり、山裾を流れる川浦川が堀のように集落の南辺を区画している。東西を横切る街道は、飛騨と美濃を結ぶ街道であり加治田は宿場町として発展した。 加治田城主斎藤紀伊守が建立した「龍福寺」がある。
[加治田城跡概要図]
加治田山城跡から虎口に向かう。虎口や曲輪、堅堀などの遺構が分布している。また虎口には石垣も残存している。ここからの登り口への下山道は不明瞭で目印テープは途中から見当たらなくなり、GPSで ルートファインディングしながらヤブ漕ぎして堰堤前30mの往路に出る。ここからは往路を下山する。
[虎口の場所]
[虎口に残された石積 ] 
 下山後は、パワースポットの清水寺心字池気場の滝で気運をもらいました。清水寺から龍福寺に移動。龍福寺は、佐藤紀伊守が創建し大徹法源禅師が開山された寺。加治田城主であった紀伊守の人柄がしのばれます。
[清水寺心字池気場の滝 ]
[龍福寺] 
山城探訪第2弾で梨割山経由による加治田城址探訪も無事終了です。タマさんお疲れさんでした。


2017年12月13日水曜日

轡野 権現山

権現山は数あれど、今回は関市にある権現山に登りました。
といいながらも、関市には武芸川町にもあるんですよね。
wikiによると、それは90超える数があるようですが、その中には今回の山は入っていませんでした。結局は百を超える数があると思われます。

今回の権現山は、轡野(関市下之保)にあり、美濃加茂市との境になります。
轡野の集落を通り過ぎ林道を入って行き分岐の手前に駐車してここから上がります。


左の林道へ入り登山口へ。ここにも看板が設置してあります。
この橋を渡って登山道へ
踏み跡は薄く作業用の道と思われますが、いきなり急な道です。でも、本当の里山的な道が続きます。

里山のワナ、いろいろな作業道が交わっており、誤ると迷います。が、危なさそうなところには、看板が設置してあるので、安心して登れます。尾根に上がると比較的なだらかな道になり、樹間より北側の様子が伺えます。


遠く北面には鷲ヶ岳?真っ白な状態で見えます。その西に大日ヶ岳か?ここいらまでくると北風が冷たく吹き込んできています。
左側は切れ落ちています。


495mピークを越え50m程下りて山頂へ向かいます。下り立ったコルには「急な登坂」と看板がかかげられています。


確かに斜面を70m程直登に近い形で上がっていきます。そしてやっとピークの広場に到着です。着いてすぐのところで、師匠が昔はここにお社があったが…、と言われます、があったのは社跡の表示だけです。
手前の石が土台の跡でしょうか。


撤去されたのか、社の破片すら見られません。山頂表示を眺めて、


南側の切り開かれた斜面に腰を下ろし早いですが昼食です。今日はタマさんと三人の還暦登山隊(私はもう少しありますが…)ですので、山頂で暖かいものをってことで、既製品のおでんを担いできています。早速鍋にあけ焼きちくわと牛筋を追加して煮込みます。


タマさんにハム等を焼いてもらい食べます。


ビールがあるといいんだけど、このご時勢それだけは出来ません。おでんの具材は練り物が中心ですので、これだけでお腹が脹れます。コーヒーを飲みながら展望を楽しみます。南側ですので山は駄目ですが、名古屋の駅前タワー群が見えます。1時間ほどまったりして、下山コースから降ります。
下山は下りだけ、上り返しはありません。


アカガレ地を過ぎると谷川左岸の見事な岩壁が確認出来ます。高さは裕に50mはあろうと思われます。その姿に見とれていますが、足元は狭く右側は切れ落ちており危険極まりない道ですので、程ほどにして降りて行きます。




すると突然といっていいくらい古ぼけた別荘が見えてきます。脇を通ると正面に乙女滝の標識が。


それに従いもう一度山へ入ります。5分ほど上り詰めた突き当たりの標識に従い乙女滝へ。美を感じさせるような清らかな滝でした。




そして戻り分岐をそのまま進み権現滝です。ここいらの岩壁も高く険しく、岩屋があります。雨宿り程度なら出来ますね。それを左にしながら進むと権現滝の出現です。こちらも水量が少ないためおとなしい印象ですが、いい滝です。滝を堪能したところでゲートを過ぎ林道を歩き戻ります。


関市役所についたのが12時半過ぎ、半日の山旅でしたが実にいい里山探訪でした。

2017年11月30日木曜日

城址巡り 第一弾

城址めぐりシリーズとして関ヶ原に点在する古戦場を巡ってきました。


まずは松尾山城ということで、松尾山に上ります。




駐車場から40分程で山頂の城郭跡につきます。

途中で伊吹山が見えます。

山頂は北方面の眺望が抜群で、山に囲まれた盆地状の平地が一望出来、戦の様子が手に取るようにわかったと思われます。ここに陣を構えたのが裏切り者の汚名を着せられている小早川秀秋(備前岡山城主)、しかし、西軍として布陣したものの、東軍に寝返る事が事前に密約されていたようです。それが証拠に、徳川の配下の武将が陣に配備されていたそうな…。彼は秀吉の正室ねねの甥にあたり、秀吉の養子となり紆余曲折を経て小早川家の養子となっています。


ここでモーニングコーヒーとし、そのあと師匠にもらった縄張り図を元に曲輪巡りをします。曲輪と思しきものは見られました。土塁や天然の堅堀は見られますが、作為的なものは自然に還ったのかわかりませんでした。


曲輪を探します

下山後そのまま歩き脇坂安治(洲本城主)の陣跡の見学です。聞きなれない名ですが、賎ヶ岳七本槍の一人として名を挙げた武将だそうです。


この人物も小早川の寝返りを見て同調して寝返った人物となります。松尾山の麓の小高い丘のようなところにありました。立ち入り禁止という看板から強行突破しましたが、本来は逆からが王道のようです。

ひっそりとたたずむ石碑
松尾山の麓に布陣したのは、大谷吉継が小早川の裏切りを疑っていたためにその押さえとして置かれたということらしいのですが、小早川の裏切りを見て大谷隊に突入しています。


その後家康最終陣地跡です。意外に多くの人が見学をされていました。家康は最初桃配山に陣を構えてたのですが、状況がよくないのでここまで押し出してきたようです。場所としては笹尾山(三成の陣)から1キロほどの所で、合戦が終了するとここで首実検をしたりしているようです。隣には資料館のような施設がありました。





そしてのろし場。合戦の合図などをするための場で、今なら電話で済みますが、当時はこれで合図を送っていたようです。黒田長政の陣の脇なので、東軍のものだったと思われます。とは言え当日は朝霧でよく見えなかったと言われていますので、使われたかどうかはわからないですね。西側に関ヶ原が一望できます。

気持ちのいい竹林

そして笹尾山へ向かいます。松尾山の真北に位置していて、ここの幟も松尾山から確認出来ていました。駐車場には甲冑姿のボランティアの人がおり、写真を撮らせてもらったりした後、正面の階段を上りあがっていきます。5分で頂上へ着き、そこの展望台からは、関ヶ原の様子が一望出来ます。後ろには伊吹山がそびえており、前面からしか攻められないいい場所と言えます。

本格的な柵があります

ここで昼食をとります。

女性武将を口説くおっちゃん ひげ面がいかにも

ちょっとゆっくりしてたのですが、風が吹き始め寒くなってきたので、早々に下山して最終決戦地の跡地へ向かいます。



歩いて5分ほどの所で、田の真ん中にあります。ここにもボランティアの甲冑姿の人がおられ、少し話をします。冬はまだ寒さをしのげるらしいですが、夏は気温もさることながら、全身黒づくめですので、たまらないようです。
後ろの幟は石田の旗印、家紋ではないようです。
大一大万大吉が組み合わされています、「天下のもとで一人が万民のために、万民が一人のために・・・という世の中になればすべての人が吉(幸福)となり、太平の世が訪れる」という意味だそうですが、彼が生み出した言葉ではなく、古くは木曽義仲を射落した石田為久という武将が使用していたようです。


ボランティアのお兄ちゃんと

この日は我々にはそこそこ人出があるように感じられましたが、映画の影響で一日で数万人来場者があったこともあったようです。しかし、跡碑を見て回るだけで入場料が必要なわけでもなく、経済的な恩恵はあまりないと思われます。
この後は島津義弘陣を見学に歩きます。どこへ行っても石碑があるだけですが、位置関係を見るだけで楽しいですね。


ここにて予定は完了となったのですが、順序が逆になるものの最終決戦地を見たので開戦の地を見ておこうと少しだけ歩きます。島津のところより10分ほどのところにありました。

ただここは伐採工事中とのことで、遠くから眺めるだけです。この裏にキリシタン大名小西行長の陣があるようなのですが、入れず田の畦を歩いて一人確認してきました。開戦場所より50mも入ったところに碑がありましたが、立ち入り禁止地にあるので幟とかはありませんでした。


これにて終了として、駐車場まで戻ります。

松尾山にも、笹尾山にも合戦の俯瞰図がありますが、それを見ると西軍は鶴翼の陣をしいています。見てわかるように、西軍は東山道(京都、滋賀方面)、北国街道(北陸)へ通じる道を押さえています。つまり援軍がこないように、逃げ出さないようにしているということです。伊勢街道だけは直接押さえられてないですが、西軍の毛利、長曽我部が近くに居ます。大垣城から東軍は着ていますので、そちらしか逃げ場がありません。それに当日の朝は霧でまったく見えなかったようなので、事前の軍議で三成はこの配置を決め通達していたと考えられます。合戦数日前には陣に入っていたのでしょう。一方の徳川はそんな中入ってきていますので、空いたところに固まった状態で配置についたといえます。

青が西軍、赤東軍、紫が寝返り組つまりは青組
ですから、後世にこの図を見た戦争のスペシャリストは、一見して西軍が勝ったと言ったそうです。がしかし、鶴翼の片方の小早川、吉川が家康に通じていたために、片翼で挑んだということで西軍は負けました。小早川は直接大谷軍をつつきそれに同調したのが脇坂安治ら4家、先陣をきる手はずの吉川は毛利が南宮山から下りれないようにしています(全く動かなかった)。「宰相殿の空弁当」という逸話がそれを物語っています。


時間も早いので帰り道にある竹中半衛の屋敷跡の見学です。門の上に上りあがり下界を望みます。
下界を見下ろします、ここは学校の門となっています

この裏の菩提山は前回中止になっているので、来月行くことにして、ゆっきーさんとはここで別れ我々は県庁へ向かいます。
お茶しながら帰り県庁にて本日の会は終了です。
美濃さん、タマさん、ゆっきーさんお疲れ様でした。

今後もまだまだこの城址巡りは続きます、皆さんも参加してくださいな。